松野 明美(まつの あけみ、本名:前田明美、1968年4月27日 - )は日本の政治家。熊本市議会議員。無所属。旧鹿本郡植木町(現・熊本市北区)出身。現在2児の母。
元陸上競技長距離走・マラソン選手。1988年・ソウルオリンピック女子10000m日本代表。その後女子マラソンでもオリンピックを目指したが、マラソンの種目で五輪代表に選出されることは一度も無かった。
[編集] ランナーとして
[編集] 誕生 - 日本女子長距離界を支えた1968年組
1968年、スイカ・メロンの全国一の産地である熊本県熊本市(旧:鹿本郡植木町)の農家に生まれる。小学生の頃は無口でいじめられっこだったが、小学校5年生のとき市内のマラソン大会で優勝。そのときの母ユイ子の笑顔がうれしく、陸上に目覚め、それとともに性格も明るくなる。以来、母のバイク伴走でマラソンの自主練習に励んだ。中学校ではバスケットボール部に所属していたが、高校から陸上部に所属。しかし、高校時代は全国的には無名で、当初は看護婦(現:看護師)を目指していた。
同じ1968年生まれの日本女子ランナーでは、1992年バルセロナオリンピック10000m・1996年アトランタオリンピックマラソン代表の真木和(現姓・山岡)、バルセロナ・アトランタ五輪両10000m代表で1997年世界陸上アテネ大会女子マラソン金メダリストの鈴木博美(現姓・伊東)、アトランタ五輪5000m・2000年シドニーオリンピック・2004年アテネオリンピック両10000m代表と、日本女子の陸上長距離界では唯一の五輪3大会連続出場者だった弘山晴美(旧姓・鈴木)、と錚々たる名前が並ぶ。この68年組の彼女ら(時に「四天王」とも呼ばれる)が横浜国際女子駅伝・国際千葉駅伝に代表される草創期の国際女子駅伝の全日本チームを支え、国内の女子駅伝を盛り上げ、そして日本女子長距離界を引っ張ってきた。しかしその一方で、この68年生まれの 4人のうち女子マラソンでオリンピックに出場できたのは真木一人のみで、しかも真木は4人の中でマラソン最高記録ならびに選考レースでの記録が最も遅く、奇しくもあとの三人は同じように記録上は代表選手より早いにもかかわらず五輪に出場できていないという、女子マラソン五輪代表選考騒動 (後述)に巻き込まれることになる。
[編集] 高校から実業団へ - 岡田監督との出会い
高校時代の松野は、全国区では無名とはいえ、九州地区では体の小さいランナーとして有名だった。だんとつのトップでインターハイ九州地区大会を制覇しながらも、あまりにも体が軽すぎて(現役当時、身長147cm、体重35kg、足のサイズ21cm)、強風で飛ばされ足をラインの中に入れてしまい失格したほどである。それを見ていた岡田正裕(後に亜細亜大学監督として箱根駅伝で総合優勝)が、倒れながらも前に進もうとする松野の姿に感動し、勧誘したという話は有名。しかし松野の両親は猛反対。そこで岡田は何度も松野の家に通い、「オリンピックに行けるから」と言って説得したという。(後に岡田も認めるように、当時としては当然ながら勧誘のためのリップサービスであった。)
高校卒業後、熊本の大手スーパーマーケットであるニコニコドーに入社。スーパーの時計売り場で働く。同時に、同社の取引先の営業マンだった岡田が「駅伝は金がかからないから」と同社社長を説得してその年に創設した実業団チームである同女子陸上部に所属。岡田監督の指導の下、月間1000キロ以上走り込み、国体優勝などの実績を積んでいく。のちには、拒食症・過食症を繰り返し、岡田自身が「休めるときは休め」と声をかけざるをえないほど、松野は練習の鬼となる。
[編集] 駅伝女王 - 女子長距離界のエースへ
松野の実質上の全国デビューはなんといっても女子駅伝である。全日本実業団対抗女子駅伝や全日本都道府県対抗女子駅伝などでは、小さな体で自分より大きなランナーを次々とごぼう抜きしていく姿が、(当時は女子マラソンや女子駅伝が始まったばかりで、駅伝中継に乗り出したTV局としても視聴率のとれるスターを求めていたということもあり)各メディアで鮮烈に取り上げられた。特に、ルーキーイヤーである1987年全日本実業団対抗女子駅伝では、初出場の熊本のニコニコドーという会社の名前やショッキングピンクのユニフォームも衝撃だったが、圧巻は最長の4区10キロで当時女子マラソンの第一人者だった増田明美(日本電気)を含む松野の12人抜き。非公認ながら10キロロードの日本最高記録32分17秒をマーク、松野は一躍� �国の注目を集めた。まさしくそれは日本女子長距離界のエースが増田から松野へ代わった瞬間でもあった。(後日談として、これ以後、松野は増田明美とよく名前を間違えられた。)
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1988年のソウルオリンピックでは、女子長距離トラック唯一の代表である10000m代表に選ばれた。本番でも積極果敢な走りを見せ、日本記録を出したものの次点で惜しくも予選落ち。ゴール直後、韓国人の係員に突き飛ばされてトラックに倒れ込んだ松野を、五輪関係者が誰も助けに行こうとしない中、松野と同じレースで1位だった長身のリズ・マッコルガン(イギリス)が慌てて小さな松野を支え起こし、その係員に「余計な事をするな」と注意されたが、係員を睨み返したという光景があった(そのマッコルガンはその後決勝で銀メダルを獲得)。このとき、松野は増田の持っていた日本記録を6年ぶりに更新している。
女子駅伝の松野というとごぼう抜きのイメージが強いが、1988年第7回全国都道府県女子駅伝での荒木久美(鹿児島県チーム、ソウル五輪マラソン代表)との総合2位をめぐるアンカー対決(最後荒木にかわされ熊本チームは3位)など、印象に残る接戦も演じている。中でも1990年の全国実業団女子対抗駅伝では、新人五十嵐美紀(リクルート、バルセロナ五輪10000m代表)と最長区間4区で壮絶な総合2位争いを繰り広げた。松野は新人の五十嵐を軽くかわそうとしたが、五十嵐もかわされまいと前に出る。それに触発された駅伝女王・松野もまた前に出る…といった意地の張り合いはすばらしい接戦を生んだ。これは今日でも語り継がれる女子駅伝名場面である。チームとしてはニコニコドーは最終5区でリクルートに破れ総合3位にとどまるも� ��4区は松野が区間新記録で区間賞をとり、面目躍如。女王のまま、女子駅伝を去ることとなる。なお、同年九州実業団駅伝では10キロの非公認ロード記録・30分59秒をマークした。
[編集] マラソン転向 - 五輪代表選考騒動
1991年世界陸上東京大会では、10000mに出場した松野は故障上がりということもあり予選12位に終わり、決勝進出は成らなかった。予選レース後の記者会見では泣きながら「この小さな身体でよく頑張った自分を褒めてやりたい」とコメントし、マラソンに転向する事を表明する。
1992年1月、バルセロナオリンピックの代表選考レースを兼ねた大阪国際女子マラソンでは、当時の日本最高記録を上回る2時間27分02秒の好記録で2位(初マラソン世界最高でもある)に入る。(このレースでは4位に山本佳子、6位浅利純子、9位朝比奈三代子とのちに日本女子マラソン界を担うランナーが上位を占めたのに対し、ソウルオリンピック代表の荒木久美が10位と浅井えり子が13位、ロスオリンピック代表の増田明美と当時の世界最高記録保持者クリスチャンセンが途中棄権している。このレースは日本女子マラソン界のひとつの転換点でもあったといえる。)同レース1位でこれまた日本最高記録と初マラソン世界最高を出した小鴨由水(現姓・松永)と、91年世界陸上東京大会女子マラソンで日本女子トップの2位入賞・銀メダル獲 得によって、既に代表に内定していた山下佐知子の二人と共に、代表確実かとも言われた。
しかし、陸連関係者の間では国内選考レースで記録の良い松野よりも、世界陸上東京大会女子マラソンで4位入賞の実績を残した、有森裕子を推す声が高いという噂が出たこともあったのか、女子マラソン代表選手発表の2日前に、松野は地元熊本で自ら異例の記者会見まで開くこととなる。松野は岡田監督らの同席の下、会見の席で駆け付けた新聞記者達やマスコミ陣、そして日本陸連に対しても「私、オリンピックに出たらメダルを獲れるとは本当に確実に思っていますので、そのためにも一生懸命頑張って練習してますので、どうぞ…選んで下さい」「やっぱり、強い人は強いと思いますので、強い人を選んでほしいです」と笑顔でアピールする。一方、有森は国内選考レースには出なかったものの、10km等のロードレースを出走し、� ��障の不安が無いことをアピール。選考決定の当日まで松野と有森のどちらに当落となるのか、全く分からない混迷状態となっていた。
1992年3月28日、結局バルセロナ五輪の女子マラソン代表へ正式に選ばれたのは山下・小鴨と、そして最後の3人目は有森裕子だった。松野の名前はそこに無く、無念の落選となってしまったのである。しかも日本陸連は松野に対し「前回のソウル五輪同様、女子10000mで選出される可能性がある」との理由で、補欠代表にも選ばなかった(補欠は谷川真理)。この騒動の根本的な原因は、五輪代表選考にとって91年世界陸上4位の有森がどういう位置づけなのか、つまり「世界陸上のマラソン競技が選考レースなのかどうか」「世界選手権4位入賞は代表内定なのか」「代表内定と決定はどう違うのか」などを当時の日本陸連は明言していなかったことにある。松野は余りのショックに泣き崩れて混乱状態となり、落選時の記者会見には出席出来� ��、ニコニコドーの小山部長と岡田監督の二人のみが会見に出席。その席で岡田監督も「何故落選となったのかが全く理解出来ない。松野が余りにも可哀想でならない」「今さら10000mで松野を五輪に出場させるつもりは無い」と悔し涙を見せた。
肥満のクロム
このような基準の不明瞭な選考により、「裏では金が動いていたのではないか」「陸連の内部対立があったのでは」「あの記者会見は逆にマイナスに作用したのかも」など根拠のない様々な憶測や噂がテレビや週刊誌をにぎわすこととなる。またその後、1992年8月のバルセロナ五輪女子マラソン本番で、有森が日本女子陸上選手として64年ぶりの2位入賞・銀メダルを獲得したことにより、選考結果に対して肯定的な風潮となり、松野はさらに苦しむことになる。
[編集] 五輪代表落選 - その後
女王から一転悲劇のヒロインとなった松野は結局失意の中、マラソンで次のアトランタオリンピック女子マラソン代表を目指すこととなる。しかし、1992年8月の北海道マラソンでは20Km過ぎで優勝争いから脱落、30度近い気温と強い風が終盤松野を苦しめ、結局2時間38分台と失速し4位(同レースでは米国のオルガ・アペルが優勝、2位が浅利純子。解説は有森裕子だった)と低迷した。
翌1993年1月の大阪国際女子マラソンに出走予定だったが故障により欠場、同年3月の名古屋国際女子マラソンで松野は進退をかけてレースに臨んだ。その名古屋ではレース終盤まで優勝争いを演じ、優勝したポーランドのカミラ・グラダスにあと一歩及ばなかったが、日本人トップの2位の好成績をあげる。その後同年大阪国際で優勝した浅利純子、2位の安部友恵とともに、1993年世界陸上シュツットガルト大会女子マラソン代表入りの切符を手にする。しかし、オリンピック代表選考騒動後の松野にとって、肉体的にも精神的にもピークを維持し続けることはもはや不可能であった。
浅利純子が2時間30分03秒の金メダル、安部友恵が2時間31分01秒の銅メダルに沸く世界陸上シュツットガルトの競技場に、松野がようやくゴールしたのは浅利から遅れること8分。8位入賞にも及ばない11位の成績に終わった松野は、競技場内で待っていた浅利と安部に、精根尽きた状態で倒れ込んでしまった。全日本実業団対抗女子駅伝での鮮烈な全国デビューから6年、増田からエースの座を華々しく奪った松野が、ひっそりと表舞台から降りた瞬間である。そして日本女子長距離界はマラソンでは有森・浅利・安部、トラックでは千葉真子・川上優子、同じ1968年生まれの真木和・鈴木博美・弘山晴美、そして高橋尚子・野口みずきへと続く群雄割拠の時代=日本女子マラソン黄金期を迎える。
現役引退後、自身が週刊誌媒体で陸連を告発するような以下の発言をしている。
- 「私はあの時、何も無理やりお願いするつもりで『私を選んでください』って記者会見を開いたんじゃないんです。あの時は絶対選ばれると思って『頑張って金メダルを取ります』っていう挨拶だったんです」
- 「代表発表の日も期待感一杯で、まさか落ちるなんて考えもしなかった。ニコニコドーの合宿所で岡田監督に呼ばれた時、朗報だと思って飛んでいったんです。そしたら『落選』って聞かされて、頭の中がもう真っ白!その日からマラソンを恨み続ける毎日でした。なんでこんな裏切られ方をするのかって」
- 「別に有森さんをけ落として出たいっていうんじゃなくて、私はマラソンで五輪に出たかっただけなんです。有森さんを恨んではいませんが、でも私よりタイムが悪かった有森さんが何故選ばれたんでしょうか?今でもよく分からないです、はい」
[編集] 引退 - 指導者・タレントの道へ
1995年12月28日、足の故障が完治しない事を理由に、翌1996年のアトランタ五輪女子マラソンへの国内選考会出場を断念、現役引退を表明する。引退の直接のきっかけは、いじめられっこだった松野が、陸上を始めるきっかけを与えてくれた母ユイ子の「もういいんじゃないかい」という言葉だったという。引退記者会見で「今一番やりたいことは?」と聞かれた後、松野は「できることならもう一度走りたい」と涙を浮かべていた。引退後は、ニコニコドー人事部係長を務める。同時に、1996年からは熊本県民テレビでスポーツキャスターも務めた。
1999年、ニコニコドー陸上部休部とともに退社し、独立して「松野明美ヒューマンライフ」という事務所を設立。現在は講演やタレント活動などを行っている。また、岡田元ニコニコドー監督が亜細亜大学陸上部監督になった縁で、1999年から2001年まで亜細亜大学陸上部女子のコーチにも就任。後進の指導にも努めている。(その亜細亜大学の2006年箱根駅伝での見事な初優勝を受け、「最初の3年間お手伝いしたが、あまりに学生の反発が強いので、もう無理だと思った。岡田監督はストレスで耳が聴こえなくなったこともあったと聞いた。だから、監督から優勝の電話をもらって涙が出た」とコメントしている。)
2008年2月、第2回東京マラソンで久々にフルマラソンに出走、お笑い芸人の竹山隆範(カンニング)と一緒に、制限時間約10分前の6時間49分09秒でゴールした。
[編集] 主な記録
トラック・駅伝
第一関節関節炎グルコサミングルコサミン液体痛み
- 1987年10月 海邦国体(沖縄国体) 5000m優勝
- 1987年12月 第7回全日本実業団対抗女子駅伝(非公認10キロロード日本最高記録32分17秒をマーク)(ニコニコドーは7位)
- 1988年1月 第6回全国都道府県女子駅伝 9区区間賞(熊本チームは4位)
- 1988年5月 兵庫リレーカーニバル 10000m優勝
- 1988年6月 日本陸上競技選手権大会優勝 10000m優勝
- 1988年6月 ソウルオリンピック 予選9位 日本新記録 32分19秒57
- 1988年12月 第1回国際千葉駅伝 6区区間2位(日本チームは4位)
- 1989年4月 熊本県選手権 10000m日本新記録 31分54秒0(日本女子初めての31分台)
- 1989年12月 バルセロナ国際女子駅伝 2区区間賞 (日本チームは2位)
- 1990年1月 第8回全国都道府県女子駅伝 9区区間賞(熊本チームは2位)
- 1990年2月 第8回横浜国際女子駅伝(日本チーム初優勝)
- 1990年6月 日本陸上競技選手権大会 10000m2度目の優勝
- 1990年9月 北京アジア大会10000m銅メダル
- 1990年10月 九州実業団駅伝(非公認10キロロード日本最高記録30分59秒をマーク)
- 1990年12月 第3回国際千葉駅伝 1区区間賞(区間新記録)(日本チームは2位)
- 1990年12月 第10回全日本実業団対抗女子駅伝 4区区間新記録(ニコニコドーは3位)
- 1991年8月 世界陸上(東京大会)10000m予選12位
マラソン
- 1992年1月 大阪国際女子マラソン 2位(1位は小鴨由水)2時間27分02秒(小鴨と共に当時日本最高記録)
- 1992年8月 北海道マラソン 4位(1位はO.アペル)2時間38分24秒
- 1993年3月 名古屋国際女子マラソン 2位 (1位はK.グラドゥス)2時間27分53秒
- 1993年8月 世界陸上(シュツットガルト大会)マラソン 11位(1位は浅利純子、3位は安部友恵)2時間38分04秒
[編集] タレントとして
引退直後から講演や陸上教室、女子駅伝の解説などを行う一方で、スポーツキャスターやコメンテーター、リポーターを勤めるなどタレントとしての非凡な才能を開花させマルチな活躍をしている。退社独立後の近年はそのおしゃべり好き(小学生時のあだ名はスピーカー、自称7時間はしゃべり続けられる)から、バラエティ番組にゲストとして頻繁に出演している(その中でも1999年以降は、特にめちゃイケの出演が多い)。
ランナーとしての全国デビューが1987年12月の全日本実業団女子駅伝の12人抜きとするならば、タレントとしての全国デビューは2000年2月29日OAの「第19回ものまねバトル大賞」(日本テレビ)における小泉今日子「なんてったってアイドル」のものまねである。フリフリのスカートに満面の笑み、激しいアクションで歌い、歌のラストはグリコポーズ でテープを切る松野(自称マラソン界のゴクミ)の姿は、全国の視聴者に強烈なインパクトを与えた。それまでの元スポーツ選手のバラエティタレントといえば、定岡正二や池谷幸雄などのように、本職のお笑い芸人にいじってもらって引き立つ芸風が主流であった。(その先駆者としてはガッツ石松がいる。)この松野のものまねの様子はナンシー関もコラム(後述)で触れている。
今日ではかつて存在した「スポーツ選手=尊敬される人であるべき」という規範意識がかなり薄れ、また主要メディアが陸上競技をショーアップして取り上げる機会も増えた(その典型が織田裕二・中井美穂両キャスターによるTBS世界陸上中継)ため、福士加代子(インタビューにて100分の3秒を「乳首3つ分」とコメント)のように現役にしてウケをねらう選手も現れている。
その特異なキャラクターから、その後は逆に松野自身が内村光良(出身が同じ熊本県)、コロンブス、加藤めぐみなどにものまねされている。
[編集] 結婚・子育て
2001年結婚。夫は鹿本高校の先輩(高校時代は接点なし)。挙式は9月10日ハワイで行ったが、折りしも9・11アメリカ同時多発テロ事件の前日。結局、帰りの飛行機で足止めを食って、すぐには日本に帰れなかった。
結婚後、夫が松野のマネージャーを務めている。松野のかかあ天下ぶりと夫の温和で心優しい性格とのギャップからトーク番組への夫婦そろっての出演も多い。
2002年関西テレビの特別番組「女ばかりの人生立て直しスペシャル」収録中に、妊娠検査薬を使ったところ妊娠が発覚した。この件については、当時ナンシー関が収録時の松野の発言「いいですかねえ、ここで(妊娠検査薬)やっても」をそのままタイトルにしたコラムを書いている(ナンシー関著『耳のこり』(朝日文庫:朝日新聞社、2004年)に収録)。現在では松野は二児(共に男子)の母である。
2008年10月15日放送の「復活の日」(TBS)番組内で、次男がダウン症及び心臓病であることを初告白した。同年12月15日放送の「スーパーモーニング」(テレビ朝日)番組内でも、出産後にダウン症と診断され心臓の難手術も経験した次男への苦悩を思い巡らせながらも、「色々有りましたが、今は次男を産んで良かった、と思っています」と、松野は笑顔でインタビューに応えていた。次男が障害を抱えていることもあり、現在は遠地での活動を控え、地元熊本を中心に日帰りが可能な九州内での活動にとどめているため、九州以外で姿を見ることは少なくなっている。
[編集] 政界入り
2010年3月23日、植木町が政令指定都市を目指す熊本市と合併。その際、植木町議を市議として受け入れることなく、またすぐに全市での選挙も行わず、熊本市議会議員の増員のみを図り(合併特例法の定数特例を適用した増員選挙)、植木合併特例区すなわち旧植木町のみを選挙区として市議会議員増員分選挙を4月に行った。肩書は熊本市議でも実質は植木の唯一の代表(定数2人)を決める選挙であった。
植木出身である松野は、合併直後の3月末に「ふるさと植木をよくしたい」「障碍者・児の住みやすい街にしたい」との公約を掲げ無所属で立候補した。選挙の僅か1ヶ月前の立候補であったが、知名度の高さを生かして定員2人に対して2番目で当選を果たした[1] 。ただし、この選挙はあくまでも補充選挙であり、任期は2011年4月30日まで、2011年4月の統一地方選挙で再び選挙戦を戦うこととなっていた。
その2011年4月の選挙は法令の規定により植木選挙区が熊本市に統合されたことから一気に多くの敵と戦うことになった一方、全市の有権者にアピールするチャンスともなった。松野はマラソンで遊説を行い「人の痛みのわかる議員になりたい」と訴え、幅広く支持を集め11,196票を獲得。2位以下に4,000票以上差をつけてのトップ当選を果たし、2期目のスタートを切った。
熊本市の政令指定都市移行は2011年10月に本決まりとなり、松野の地元旧植木町には旧役場に北区役所が新たに設けられることが決まった。これによって松野の選挙区は再び縮小され、次の選挙からは北区選挙区からの立候補となる。
[編集] エピソード
- タレントとしてはリアクションが大きいことで有名。「めちゃ²イケてるッ!」(フジテレビ)では2004年には「年忘れ・スポーツ大スター大集合」という偽番組、2006年には偽一日警察署長とドッキリを仕掛けられ、番組史に残る強烈なリアクションを放った。同番組では、そのほかにもテスト企画では「答え」と書くべきところを「谷え」と数学なのに漢字を間違えて書く、前代未聞の珍回答を書いて「松野独立王国」と言われたり、夫婦で共演した際には、夫へ性生活の不満を語るなど、ゲストの常連である。
- 2007年4月14日のめちゃイケスペシャルでは、シンクロナイズドテイスティングにハリセンボン・オアシズと共に中国代表として参加。史上初の「お笑い界外からの参加」となった(しかし挑戦には失敗し、氷水に落下している)。
- 音痴であり、「お笑い芸人歌がへたな王座決定戦」にも出場している。音程の外し方の酷さは勿論の事、後述の様な「超音波」等と称される程のあまりにも異常なキンキン声のせいで原曲を台無しにし、爆笑を誘った。この他、相変わらずの挙動不審ぶりにナインティナインからは「猫の霊でもとりついていますか?」と言われ審査員の米良美一からは「ガチャガチャしてる」とまで言われた。
- 松野は単なるおしゃべり好きにとどまらず、そのおしゃべりのあまりのテンションの高さも有名である。2005年に話題になった隣家に大音量の騒音を出しづづけたおばさん(奈良騒音傷害事件)による騒音のすごさを伝えるために、TBS『サンデージャポン』において松野のおしゃべりを間近で聞かされたときの音量と比較されたほどである。その結果、ほぼ同じ音量と判り「それは確かにうるさい」とみんなが納得した。
[編集] 主な出演番組
[編集] ドラマ
[編集] ドキュメンタリー
- ^ 松野明美さん、熊本市議当選 植木町選挙区選挙 - 熊本日日新聞 2010年4月26日閲覧
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